殺意と女性ホルモンは出し惜しむな

年齢一桁の時分、女らしさに嫌悪感を持っていた。

 

髪の毛は短く、スカートなんて全く履かず、オレとは言わなくとも私なんてとても言えなかった。胸が膨らみ始めたのだって嫌だった。

 

今となれば感謝して享受しておけばよかったと陵南戦の三井寿ばりに悔やんでいる。

 

元々シスコンなので姉二人はいつも憧れの存在で、”姉がボーイッシュなら私も”、とそれが一番の理由だった。となれば当然”姉が女らしくするなら私も”となるわけで、姉が高校に入るころには私もボーイッシュからかけ離れていくのである。

 

髪の毛を伸ばしスカートを履き、高1の頃には化粧も覚えた。小学校の頃に感じていた女らしさへの嫌悪感はなんだったのだろう。

 

通っていたスイミングスクールで、変なおじさんにケツをジッと見つめ続けられた経験があるからだろうか。性的な目で見られるというのは、年端もいかない女児には違和感と不快感しかない。

 

そしてこれはただの自慢なのだが、小さい頃はマジで可愛かった。外国の赤ちゃんのような愛らしさだった。保育園の同級の保護者に私のファンが居て、毎日貢物(髪飾りとか)を貰っていたくらいだ。

 

そして何より親が私の外見について褒めるのはその頃についてだけである。お陰でこんな屈折した自意識の持ち主になった。物事には必ず因果があると親の賛辞と己の自意識から学んだ。サンキュー!とマシンガンを乱射しながら叫びたい。

 

それにしても、小さい頃は可愛かったんだよ自慢をすると、オレ昔は悪だったんだぜ自慢をする中の下の男のようで恥ずかしい。満足に自慢も出来ないほど自己肯定度が低いのでこの話は終わりにする。

 

で、高校生大学生現在と特にボーイッシュな服装もせずフェミニンとまではいかずとも女らしい服装は好きだった。女の子らしい、というより女らしい服が好きだ。成長した私は目出度くゴツいオカマ顔となったので女寄りにしないとタイで性転換したのに服装はそのままみたいな人みたいになってしまうのもある。

 

こんなことを書いてはいるが私は女の人生をすごく楽しんでいるし、女らしくするのが好きだ。

 

もしもこのブログを読んで、そうかじゃあ女らしくしてやるわいガーッハッハッハと思ってくださった諸氏(死後の魂を賭けても良いが居ないだろう)には僭越ながらこう申し上げたい。

 

殺意と女性ホルモンは出し惜しむな。

 

殺気は色気であり色気は殺気だ。私の場合殺気が元々無いに等しい色気を完全に食い殺し殺気100%のヤベーブスになっているがそれでもそう言いたい。この2文で「殺」と言う字が5回出てきてしまった。殺意弁が完全にどうかしている。

 

死線を潜り抜けて来たスタントマンは物凄いフェロモンを醸し出すらしいし、「アブない」は「なんだかエロい」の遠回しな言い方だ。ぜひとも殺気と色気の入り混じった女性が増えてほしい。殺気の出し方は各々上司を思い浮かべるとか、天引きされる税金の桁数とか、インスタ映えばかり気にする女を思い浮かべて工夫して頂こう。

 

さて、美意識の高い私はそろそろ日課である丑の刻参りの準備を始めるので失礼させて頂く。あなかしこ。